交通遺児育英会の創立者・永野重雄氏はどんな人物?プロフィール・経歴を知ろう!
交通遺児育英会の創立者である永野重雄氏はどんな人物なのか?プロフィールや経歴のほか、実績などについて調査しました!
永野重雄氏とは?
交通遺児育英会の創立者である永野重雄氏は1900年7月15日島根県松江市で生まれ、広島県広島市で育ちました。
東京大学法学部を1924年に卒業しています。大学卒業後は、貿易会社である浅野物産に入社するも、10か月で退社。1925年には倒産会社、富士製鋼の再建を果たしたそう。これをきっかけに、人生を製鉄業に捧げることとなったようです。
1933年、日本冶金工業の取締役、翌年に富士製鋼が日本製鐵(日鐵)に統合され、日鐵富士製鋼所となると、所長に就任しました。
戦後、日鐵に常務取締役で復帰。諸井貫一氏、堀田庄三氏など若い経営者らと一緒に経済同友会を立ち上げ、代表幹事に就任しました。1948年には日本経営者団体連盟(日経連)設立に発案者として参加し、常任理事弘報委員長を務めました。
1951年には東京商工会議所の副会頭、1959年に会頭に就任しています。現在の経済三団体は横のつながりが乏しかったものの、永野氏の日商会頭就任以降、積極的な交流を図るようになったとのこと。同氏は、桜田武氏、小林中氏、水野成夫氏と共に「財界四天王」と呼ばれ、政治的影響力を持つようになったそうです。
1970年、富士製鐵と八幡製鐵が合併し新日本製鐵が設立され、会長に就任。その後は財界のリーダーとして様々な業界に貢献しています。数多くの役職を務め、頼まれると大抵引き受けていたため、肩書は600を超えると言われています。
1984年、83歳でその生涯を閉じました。
永野重雄氏の経歴・実績
・1924年 東京帝国大学法学部政治学科を卒業、浅野物産に入社
・1925年 富士製鋼に転じる
・1934年 支配人・取締役を経て、日本製鐵富士製鋼所所長に就任
・1947年 敗戦後経済安定本部副長官となる
・1950年 富士製鐵の設立とともに社長に就任
・1956年 産業計画会議委員就任
・1963年 日本鉄鋼連盟会長に就任
・1965年 同名誉会長に就任
・1969年 第13代日本商工会議所会頭に就任
・1970年 八幡製鐵との合併で新日本製鐵を設立し、会長に就任
・1984年 日本商工会議所会頭を五島昇に譲り、退任
・1984年5月 逝去
参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%87%8E%E9%87%8D%E9%9B%84
新日本製鐵株式会社ってどんな会社?
社名 :新日本製鐵株式会社
所在地:100-8071 東京都千代田区丸の内2丁目6-1
初代会長:永野重雄
新日本製鐵株式会社は、かつて存在した日本大手製鉄メーカーです。2012年に住友金属工業と合併し新日鐵住金株式会社となり、2019年より、日本静鉄株式会社に社名を変更しています。
高炉を構え、鉄鉱石を原料に銑鉄から鋼材までを一貫して製造する銑鋼一貫製鉄所を持つ「高炉メーカー」の1つ。2010年の粗鋼生産量において国内では第1位、世界では第5位の規模を誇っていたそうです。
まとめ
永野重雄氏は、製鉄業にその生涯を捧げた、戦後の日本を代表する鉄鋼界の大御所です。新日本製鐵会長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭など多くの役職を歴任してきました。永野重雄氏の人物はもちろん、基金を形成するための側面で財界、政界、官界の広い人脈が期待され、交通遺児育英会の初代会長を務めたようです。